映画の中には、たくさんの嘘があります。
それは、どんな業界を描いたドラマであってもそうだろうと思います。
誇張し、あるいはイメージをつくって、視聴者に、よりドラマのインパクトを与えたい場合もあるでしょう。
しかし、嘘が多いのも事実だと思っています。
(ただし、これは批判ではありません。私は映画が大好きですし、学生時代は誰よりも映画オタクだったと思います。)
たとえば、身近な恋愛映画だってそうです。
やたらリアルに共感できるシーンもあるだろうけど、
「普通、そんなこと言わないでしょ」「普通、そんなことしないでしょ」ってこともたくさん出てきます。
心の流れがつながっていれば、行動やリアクションは大げさで、頃合いよく刺激的だったり、驚いたり、心ざわめくシーンがあるほうが伝わるということなのでしょう。それを視聴覚で伝えたほうが・・・という意味で。
金城武さんが、昔、日本の現場は、「セリフの言い回しがオーバーにしないといけないとか、感情をあらわにしないといけない、そこが、ちょっと違う」と言ってたことがあるそうです。
個人的な感想としては、中国・台湾の映画やドラマも、むしろオーバーな演技に感じたこともあります。しかし、確かに、この30年くらい、特に、日本のドラマ、映画もそんな感じがしないでもないですね。アニメが原作の作品が多いせいもあるのでしょうか。
この30年ですっかり変わったと思ってます。
1990年代初めくらいまでの映画やドラマと、その後30年ちょっとのそれでは、だいぶ違ってきたように思います。
言葉(文脈や間、句読点的空気)ではなく、音や色、見た目で判断することのほうが正しく伝わるという考え方になっています。
そして、ここ数年は、ヤクザ映画的なものでも、Vシネと言われる方向性ではなく、いわゆる商業映画としては大手の劇場で全国公開するような映画が散見されます。
全部は見ていないので、批評はできませんが、予告だけ観た感じでの印象は、やはり、「そんなのないよ」「それはありえないでしょ」っていうシーンがたくさんありました。もちろん、私も知っているような、みたことあるような場面のリアクションに関してです。
そして、あくまでもエンタテイメントであることを、観客たちがどこまでしっかり割り切っているかも、また疑問です。
四半世紀以上前の映画の世界は、本当に実際、身近にありそうな出来事や日常が映画になっていました。そこには、言葉(文脈や間、句読点的空気)があり、観客もそこを読み取る、感じ取る事ができました。
今はどうなんでしょう。
そんな風に思うのは、私が「今の時代」では、すでに時代遅れのおばさんだからでしょうか。でも、それなら、私は、時代遅れのおばさんでいいと思います。
本来、誰もが多面的な面を持ち、感情も様々にながれていくものです。
『ティファニーで朝食を』を好きな女性は多いです。
しかし、主人公の彼女の内面について、深くて語りつくせないと言いつつ語り続ける映画鑑賞者より
彼女のファッションや窓辺で歌うムーンリバーやあらすじを語る人のほうが多いかもしれません。
勧善懲悪のその先は
やはり、怖いものはとことん怖く、勧善懲悪の世界になりつつあるように思います。
世の中全体が、勧善懲悪「でなければならない」時代になりつつあります。
本当の意味での統制下社会に向けて、価値観の入れ替えの始まりなのだろうと感じています。
しかし、昭和の時代劇、暴れん坊将軍や水戸黄門のような解り易い、完璧な娯楽作品の勧善懲悪も嫌いじゃないですが😊
フーテンの寅さんは、なぜあんなに国民的ヒーローになったのでしょう。なぜあんなに愛されたのでしょう。渥美清さんの独特のキャラクターや声も相乗効果あったと思います。しかし、フーテンの寅は、ただの押し売り、流れ者のヤクザにもなりきれない根性もない、その日暮らしのテキ屋の下で、おこぼれ頂戴で仕事させてもらってるチンピラみたいなものです。年がら年中、家族に迷惑と心配をかけています。
でも、あの映画は、多面的に人間が描かれていました。今の時代に、はじめて車寅次郎を描くとしたら、おどろおどろしいシーンが沢山でてくる、悲しく残虐なヒットマンに転落していくチンピラでしょうか。涙と血と汗の醜臭しか放たないような男に描かれていたかもしれません。
(ま、原作者がそういう作風ではないので、別の作者が描いたら、さもありなん・・・って程度の余談ですがw
※その世界の人を擁護するために書いている訳ではありません。あくまでも一個人として、客観的感想を述べています。