昭和の懐かしい街中華
小沢仁志さんのYouTubeチャンネルで
小林幸子さんと街中華で餃子を食べている動画を見た。
さらっと笑いながらお話してるけど、懐かしい昭和には、今なら目を顰める人、週刊誌で叩かれて抹殺されるかもしれないエピソード、雑多で様々な色がまじりあった賑やかで熱量がありあったかい昭和。さらっと、そんな懐かしい昭和のエピソードを語っていた。
街中華には幼い頃の想い出が多いので、最近よく見るようになったチャンネルでもある。
私の中の街中華と喫茶店の想い出
幼い頃の街中華の想い出
これは、ポッドキャストでも以前、話をしているが……。
物心ついた頃から、街中華によく通っていた。父が近所に出かけたと聞けば、必ず、パチンコ屋と映画館に父を探しに行けば見つけることができた。
父は、とても映画が好きで、若い頃は、よく映画館に行って「おとうちゃ~ん」と、後ろのドアを開けて叫ぶと、まばらに並ぶ頭の中から、ひょっこりと父が立ち上がって歩いてくる。フーテンの寅さんなら、そのまま、売店でフルーツ牛乳とおせんべいを買ってもらい、また暗がりに戻り、たばことおせんべいとトイレのにおいでいっぱいの赤いビロードのシートに座る。
ヤクザ映画や西部劇を観ていた時なら、映画館を出て、ふたりで行きつけの大衆食堂に向かう。

パチンコ屋では、横の出入り口から背伸びしてガラス越しに父を探す。正面から中に入っていくと、「ここは、ロクでもないへんなのばかりいるんだから、ここに入っちゃダメだ」と言われたものだった。
だから、基本、横の小さなガラスのドアからのぞき込むのだが、店の店員が私を見つけると、父に「娘さん、きてますよ」と声かけに行ってくれた。
父は、急いで出てきて、「ラーメン食いに行くか?かき氷がいいか?お子様ランチか?」と言って、またふたりで街中華を食べに行く。
街中華の想い出を語った動画の記事↓
10代の街中華、そして喫茶店へ
私の中の街中華の想い出は、とてもたくさんあって、中学三年生までは、毎日のように学生服のまま、下校時、通学路沿いにあった自宅を通り越して、友人たちと、ある大衆食堂に通ったものだった。
高校生になると、街中華から喫茶店に変わった。きっと、少しだけ背伸びして、お洒落な気分でいたのだろう。
ラーメンと餃子ではなく、ナポリタンやピザトーストとコーヒー、ケーキに変わった。喫茶店で、生まれて初めて食べたチーズケーキが美味しくて、かなり感動した。
毎日通うには、お金がかかって通いきれなかったけれど、週に3日くらいは通っていたかもしれない。
今思えば、私も友人もバイトをしていない状態で、週に三日、喫茶店に通えたのは、今、思えばお小遣いのほとんどは、喫茶店で使っていたということだろう。
今のように、ネットのサブスクもないし、スマホ代も、ゲーム代も何もない。せいぜい、数か月に一度買うLPレコードは、友人たちとあえて別のものを買って、順番に交換し合ってテープレコーダーに録音していた。
喫茶店代が、お小遣いの大半だった。メイク用品なんて、あの時代はせいぜいリップクリーム程度だったし、スカートは長くても、髪をカールしていても、メイクをしている友人はいなかった。
田舎ほど、街中華が消えている。
田舎に行くほど、中華食堂の数は減っている。チェーン店の大型飲食店が多くなっているから、田舎で個人経営の中華屋さんは、常連さんだけの店になってしまったのだろう。それだけでは、人口を考えればやっていけない。
むしろ、都会のほうが下町の街中華がまだ健在。