離れに住んでいた若い衆たちと陰ひなた
幼い頃、家の離れには若い衆たちが3~4人住み込んでいたエピソードを小説に書いているのですが、そんな思い出の断片を、ちょっとおしゃべりしてみました。
笑って、人に語れるまで50年かかりました。
動画内は、少し、笑いながら語っていますが、語っている内容の中で若い衆のにーさんたちがしていたことを肯定しているわけではありません。笑いを含めて、見知らぬ人に語れるようになるまでに、私は自分の生涯の三分の二の時間がかかりました。
よく、
極妻でした。
極道の娘でした。
父は極道でした。
ということを自慢げに言うひとがいますが、私は、決して「社会的に」自慢できる人間ではないと思っています。
ただ、
しかし、
人間社会と人間の本質との間には、少しのズレがあって、人生の陰ひなた、心の機微・葛藤。様々なものが織りなす「命」を簡単に断罪できないのではないかというのが、今、60歳を過ぎて、やっと文字にできたということです。
身近な人たちは、私に対して「お嬢さん育ちで」どうのこうのというイメージであったようですが、私は、ずっと針の筵に座っていた、針山を歩いていた気分で、常に10代、20代は、自ら死ぬことが頭の片隅にありました。常に後ろめたさと人の目や口を気にして人生を送ってきました。そこには、もちろん陰ひなた、良いこともあったし、感動も喜びもありました。悲しみと卑屈な気持ちだけで生きてきたわけではありません。私なりの機微があってのことです。泣いていただけの人生でもないし、ふわふわしていたお嬢さん暮らしばかりでもありませんでした。
人生は、ディープ、複雑です
歳を重ねるごとに、人生がいかに意味深いものか、そして何の意味もないものかと、その両方を感じるのです。さらに言えば、だからこそ、貴重な奇跡だと思うのです。
「人生」という言葉の中に、様々な意味を込めて生きるのは人間だけです。人間としての一生をいただいたこと、生まれたことへの感謝が溢れます。
犬や猫は、そんなことは考えません。
いい人、悪い人を、まるっと100%でくくって是か非かで語れる人間は、多分、極悪非道の歴史に残る犯罪を起こした人か、千年先でも偉人として歴史に残る聖人くらいではないかと思っています。
もしかしたら、是か非か100%なんていないとさえ思います。(だからといって、やくざを擁護してるようには思わないでください。そこを超えたところの話をしています)
さて……
ちょっと、脈絡のない、まとまりのない文章になりましたが、いま、思いつくままに、久々ブログをつづってみました。
では、もしよろしければ、動画をお聴きください。耳だけで大丈夫です。映像は意味がありません。